総合的な特徴

ロックと定義

定義なんで出来ないんだよ、は通用しません

物事には何事も『一般的な定義』が存在するものだ、定義はキチンと存在しているものでそんなものは存在しないという言葉は正直通用しない。そもそも定義がなければ現存していないだろうと突っ込みたくなるが、ロックという音楽ジャンルに関してはその性質を考えれば仕方のない部分があるのも頷けてしまう。様々な音楽をベースとする事の出来る音楽となっているため、バンドを組んで利用する楽器もその時々によって異なってくる。ギターとベース、ドラムスは基本的に外されないと考えても、この中にバイオリンやピアノ、中にはチェロといったオーケストラの主軸に関わるような楽器まで音楽スタイルの一部に取り入れてしまう。ピアノに関しては取り入れられている頻度は高いだろうが、バイオリンやチェロなどは何処となく異質なように感じられるのだが、それは別段気のせいではないだろう。

こうした特徴を持っているためロックを定義するのは難しいと感じるのは当然かもしれない、ただだからといって『ロックに定義なんて存在するわけないだろう』といった言葉はさすがに罷り通ることは無い。筆者的に思うところは、ロックという音楽に定義をつけるなら『多様性音楽』とでもいえばあらゆる面で通用するだろうと思う。ロック調の楽曲をカラオケで流して歌っているアイドル的な人々もいることを考えれば、何となく適しているだろう。

しかし定義に関していえば、ロックとはこういうものだという持論を展開している人々を多く見かけることが出来る。こだわりが強いのは理解できるが、あまりに独創過ぎる定義を定義として押し付けている所もあるので、それはさすがに些か問題だ。ではここでは世間的に見たロックの定義、その愉快すぎる定義づけについて少し見ていこう。


自分を主張するため

ロック歌手が演奏している楽曲の特徴として演奏もあるが、何よりも歌詞に込められたメッセージ性だろう。そこに刻まれているのは社会の理不尽さに屈してたまるものかと、自分はこうしていたいんだという反逆的な意味合いを込めて歌い上げている人々が多く見かけられる。日本で演奏されている日本人歌手のロックバンドの中にも独特すぎる楽曲を歌い上げている人もいるが、あまりに独善過ぎて付いていけないという部分もある。ただどの点でも、ロックは『自分を主張しているための手段』として用いられていることだけは間違いない。

事実、様々な歌手がそういった意図をもってしてロックミュージックを演奏している歴史があるからだ。

具体例

・カートコバーン ― ロックの核心は反体制、反権力であり、成功してしまった俺にはもうロックは歌えない。だから俺はもう死ぬしかない。

・キース・リチャーズ ― やった、元気になった! コレでまたドラッグを使用することが出来る!

・ルー・リード ― 学校も団体も嫌いだ、権力なんて反吐が出る。自分はロックをするために生まれてきたんだ。

・シド・ヴィシャス ― 警察には俺を逮捕することは出来ない、どうしてかって? それは俺がロックスターだからだ!

海外でそれなりに有名なロックミュージックを演奏していた人々の名言を少し紹介したが、どれもコレもかなり特徴ありすぎて何から突っ込んだらいいのかと思い悩んでしまうが、最後のロックスターだから何でもして良いという、唯我独尊過ぎる不遜さはさすがにいただけない。コレではまるでロックミュージックをしていれば何をしても良いと捉えてしまう人もいる。ただこの『シド・ヴィシャス』に関しては、ロック業界としてみればかなり有名な人物だが、それ以上に独善過ぎる人間性を持っているため、筆者としては正直理解の範疇を超えてしまっている。

また一番最初のカートコバーンについては、ロックミュージックを演奏している人間は成功してはいけないはずだと、物凄い持論を展開している。あまつさえ自分は成功してしまったら死ぬしかないという結末さえ用意しているため、戸惑うばかりだ。ロックを演奏している人間は全てにおいて社会に対して反逆の意志を示している、というのは何となくわかるところ。世の中の理不尽さに耐え切れなくなってしまい、嫌気が差して社会のルールに捉われない自分を表現して行こうとする気概は認めるが、それでも根本的にルールから離れられてない点を踏まえれば、何とも滑稽だ。

彼らにとってロックを定義するなら『社会に対して自分を主張するための手段』だとしている。


ロックなんてこの世に存在しない

またある人はそもそもロックという音楽は既に無くなっていると断言してしまっている人もいる。ロックミュージックが消滅しているというが、それをどういう風に感じてそのような言葉が出てくるのか、やはりここでも一部のロック歌手が発した名言から考えてみたい。

具体例

・ジョン・レノン ― ロックは既に死んでいる、宗教のように化してしまった。コマーシャルに特化しすぎてしまい、今後の発展は見込めない。

・真島昌利 ― ロックが死んだんなら、それはロックの勝手だ。

こちらの例では説得力が非常にあるものと、もはや自分次第だろうというような投げやりにも近い発言をしている例に分かれている。最初に紹介したのはそれこそロックミュージックというジャンルでもはや知る人ぞいない『ジョン・レノン』が告げた言葉の、宗教的かつコマーシャルというものには激しく同感してしまう。その一方で、ロックを死んだと呼称している『真島昌利』さんが発言した診断何らそれはロックの勝手だというのも、物凄く同意してしまう。

どちらも説得力の高い言葉であって、どちらも蔑ろにするにはあまりに惜しいものだ。ただそれでも定義として考えると、『存在しない』ということを意味するようになってしまうので論外だ。